第1回 田畑 実 戯曲賞

選考結果

『ひたむきな星暦』
柳生二千翔 作

ネームバリューのない「戯曲賞」ですが、第1回の募集には34作品の応募があり、この国の何処かで、懸命に演劇に打ち込んでいる人達がおられることを、作品を通して知ることができまして、感激しております。
作品はそれぞれに読み応えのある優れた作品が多く、この中から「一作品」を選び出すことは、大変困難な作業でした。
何分初めての試みで、最終的には「受賞作をスタジオで上演する」ことも考慮して選考しましたので、残念ながら取り上げられなかった作品がありましたことを、ここに深くお詫び申し上げます。

これからも回を重ねながら、各方面からのアドバイスも頂き、幅広くいろいろな作品を取り上げられる、魅力ある「戯曲賞」にして行きたく思つております。
引き続き皆さまからの作品のご応募をお待ちしております。

第1回の選考委員には
山口浩章氏(このしたやみ)と、田辺 剛氏(下鴨車窓)にお願いしました。

2018年 6月 末日

選考結果

選考過程概要

6月26日、第一回田畑実戯曲賞の選考会が人間座スタジオで開かれた。選考委員は人間座の菱井喜美子、劇作家田辺剛、演出家山口浩章の三名。応募作品は全部で34作品、当日までにそれぞれが応募作品を読んで集まった。
まず、選考方法について、話し合われ、選考委員がそれぞれ、これはと思う作品を挙げた。
菱井さんは長尾譲二さんの『原因と結果とフライパンのラプソディー』と森山智仁氏の『Girls,be a mother』、土井誠善氏の『愛してる』を挙げ、田辺さんは柳生二千翔氏の『ひたむきな星屑』と合田団地氏の『深い緑がねじれる』を、私は柳生二千翔氏の『ひたむきな星屑』と、向坂達也氏の『難破船ケリーの正義の話をしよう』を挙げた。
各作品に対する詳細な講評は選考委員それぞれの講評を参照していただければと思うが、大まかに言うと、菱井さんは、人間座での上演を視野に「オーソドックスさ」や「わかりやすさ」、「完成度」などを理由に上記作品を挙げ、田辺さんと私は「現代性」や「オリジナリティ」を上記作品を選んだ理由に挙げた。
昼食を挟んで話し合った結果、『ひたむきな星屑』、『深い緑がねじれる』『難破船ケリーの正義の話をしよう』の三作品が最終候補作品に選ばれ、さらにその後話し合った結果、第一回田畑実戯曲賞受賞作品は柳生二千翔氏の『ひたむきな星屑』に決定した。

講評 田辺剛

水野はつねさんの『傘の尖り』が忘れられない。いまの生活にほとんど絶望している高二の少女をしてくらげとセックスさせるのはなぜなのか。同級生の男の子ではない。高度に進化し知性を持っているとはいえ相手はくらげだ。それを自傷願望と性欲の悪趣味な象徴だと揶揄するのは簡単だろう。しかし毒針のようなくらげの生殖器に貫かれたいと語る少女の、自身の存在感を取り戻そうとする切実さと果たして実現するセックスの詩による描写は、抑圧された一人の少女を世間から同情を誘うだけのコトに落とすまいとする作家の覚悟の反映だ。苦しむ少女に注目するフリをしながら彼女らを可憐なスケープゴートにしてしまう現代社会への批評である。ただそうした強い印象の一方で会話の運びや物語の構成などの拙さから残念ながら受賞作には今回推さなかった。水野さんの次作に接する機会があればと率直に思う。

合田団地さんの『深い緑がねじれる』では登場人物たちが自らではなく他人を刺していく。ただしこの劇世界では刺しても殺せないし刺されても死なない。誰もが生来持つ暴力は実行されるのではなく妄想として他者と共有される、そのようにして社会を循環しているという見立てがここにはある。自らの存在の不確かさに迷う人らが街を徘徊する。何人かは深い緑に囲まれる山や寒い海にたどり着くがそこも人々を抱擁する大自然ではなく、妄想の渦中にあるいびつな彼岸だ。自分を充たすため、あるいは抱えているものを捨てるために人々は赴く。それにしても、その場所で身投げすることがこの世界から逃れる唯一の手段であるとすれば、それが実際の死を得る代償として実現することであるならなんと皮肉なことだろうか。つねに陰が差す劇世界だ。しかしそれだけにたとえねじれていても山の緑は深くみずみずしい。乾ききった台詞で成り立つ世界との対比が鮮やかだった。美しかった。

柳生二千翔さんの『ひたむきな星屑』ではその小さな街も夏には深い緑に包まれるが物語は冬に向かう時期である。街は高速道路に貫かれている。車の赤いテールランプが行き交うそばに登場人物たちはいる。パーキングエリアのフードコートだ。この作品も『傘の尖り』や『深い緑がねじれる』と通底しているけれど、特にわたしが注目したのは物語の構成がむしろ台詞のやりとりの外でなされていることだ。街を貫くだけの高速道路と舞台になるそのパーキングエリア。緑や赤そして白という色彩。不意に来るメールや返信を待たないメール、届いていないかもしれない手紙。一つ一つは小さなかけらだがそれらを巧みに配置することで物語を構成させれば、登場人物と彼らが生きる場所の孤独が豊かに想起させられる。そして洗練された一人語りのことばもある。例えばある場面はトイレの中で男といる加絵という女が一人語りをする。その台詞のあいまに短いト書きが記される。「触れている」。そして語りが続いた後で現れるもう一行。「加絵の指先だけ男に触れている」。文字数としては台詞の方が圧倒的に多いのだがこの場面を成り立たせているのは彼女の指先だ。このように口から発せられるものだけがことばではないことを柳生さんは作品のあちこちで示している。いくつかの瑕疵を差し引いても十分注目に価する作品だ。

わたしは選考の席で受賞作の候補としては『深い緑がねじれる』と『ひたむきな星屑』を挙げた。上に挙げた三作品は作家自らが作り出した物語を語りつつそれと対峙して思考を重ねた軌跡だ。演劇は物語と無縁ではありえないが、かといって物語を伝えるだけのツールであってはならない。そのことを再確認させてもらえたのは幸いだった。

講評 山口浩章

今回、第一回田畑実戯曲賞を創設した人間座の菱井さんから、選考委員の依頼をいただいた。戯曲賞創設意図を菱井さんに伺ったところ、一つは、戦後京都の演劇に大きな役割を果たした田畑実氏の名前を残したいということ、もう一つは、これから演劇を担っていく人たちに何か役に立つことをしたいということで、劇作家ではない私でも何かのお役に立てればと、選考委員を勤めさせていただくことにした。
応募作品は多岐にわたり、音楽劇から新劇風な作品、ファンタジーなど様々だったが、読んでいて、面白いと思った作品は、柳生二千翔氏の『ひたむきな星屑』と向坂達也氏の『難破船ケリーの正義の話をしよう』だった。

柳生二千翔氏の『ひたむきな星屑』は、群馬県の田舎町、その町には高速道路が通っており、今や町一番の賑やかな場所となっているサービスエリアが舞台である。町には高速道路の入り口も出口もなく、人々は通過していくだけという状況は、私の生まれ育った埼玉県大里郡岡部町(現在は深谷市)によく似ている。その閉塞感は通過する人々が要る分余計に強まる。脚本はモノローグや、風景描写が多く、風景そのものが登場人物たちの心をよく表している。
物語の中に出てくる“櫻井翔”からのいわゆる迷惑メールは、外界との唯一といってよい接点であり、外界から救いを求めるメッセージでもある。つまり、外の世界にも救いはないという可能性を示すが、そうした閉塞感を持つ者同士の繋がりそのものが救いとなる。このあたり、実際の上演ではどのような手法を取るのか、楽しみでもある。
また、身体感覚の描写に独特な部分が見られ、他の作品にはない視点と感覚に興味を惹かれた。向坂達也氏の『難破船ケリーの正義の話をしよう』は不思議な読後感のある作品。登場人物はまともに話も通じないようなバカのケリーとその息子が主で、息子が聞いた父親の話を語るという体で進み、時折話の筋をぶった切るような、または読んでいる現実の世界と舞台上の世界を強制的に結び付けるような話が挿入される。
ちなみに、応募作品を菱井さんから渡された際、いくつかの作品はあらすじや、作品のコンセプトが書かれた一枚目が抜け落ちており、この作品もそのうちの一つで、最初は題名も作者も分からないまま読んだ。
読むうちにバカのケリー独特の生き方に魅力を感じはじめ、ラストでは、ケリーが亡くなったことを淋しく思うようにさえなっていた。
ケリーもその息子も、周囲の世界や社会とうまく付き合えない。人生の様々な場面が描かれるが、周囲が思うであろう事の重大さは本人には認識されない。本人にとって重大なことは、周囲からはどうでもよいことに見える。そうした社会との決定的な齟齬を、しかもさして認識しないまま楽しそうに生きている。そういう愛すべきバカを、独特の文体で描いている。

以上の事から、私はこの二つの作品を推し、最終的には選考委員三人の同意を得た柳生二千翔氏
の『ひたむきな星屑』が受賞作品となった。上記作品以外にも魅力的な部分のある作品がいくつかあり、今後の作品に期待したい。
このような多くの作品に触れる機会を下さった、田畑実戯曲賞と菱井さんにそして、応募してくださった作家の皆さんに、改めて御礼申し上げます。

上演記録・劇評

第1回田畑実戯曲賞 受賞作品
『ひたむきな星屑』

作:柳生二千翔(女の子には内緒/青年団)
演出:河井朗(ルサンチカ)

出演:渡辺綾子 土肥希理子 諸江翔大朗 福田有司 菱井喜美子 酒井信古

日程:2019年5月23日(木)〜26(日)
会場:人間座スタジオ

[劇評]市川奈々 氏

まずは、このような劇評を募集する企画を立ち上げ、わたしのような劇評家ではないただ の若者に機会を与えてくれた人間座に敬意を表したい。
ひたすら率直に、1人の客として思ったことを書こうと思う。
観劇中、大学在学中に数々見た学生演劇を思い出していた。学生演劇のような作品だと思った。学生=クオリティーが低いという意味ではない。作家・演出家に迷いが見えたように 感じた瞬間がいくつかあったからだと思う。オリジナリティーを確立するための試行錯誤 中のもどかしさが常に拝見できたような気がする。役者は地に足がついている印象を受けた分、戯曲と演出のかすかなずれや揺れが気になった。(もしかしたらそれが作品の狙い だったのかもしれないが)言葉を変えるとワークインプログレスのような作品だった。
全体を通して思ったことは、戯曲があまり親切ではない、という事だった。親切な戯曲が秀れた戯曲ではないという事は承知の上だ。この戯曲の不親切さは、作者が意図した不親切さなのか・それとも不器用さゆえなのか分からない曖昧なレベルで迷っているように感じ、自分の中でストン、と何かに落とし込むことが出来なかった。また、演出家がテキストを深く理解しているシーン・観客の私たちと同じくらい恐らく理解しきれていないのであろうシーンの質に差を感じた。そういう解釈の仕方があるのか、と演出によって驚かされた部分もあれば(セックス描写と映画館のシーンはテキストと演出が噛み合いどきっと させられた)、観客席に直接迷いが届いた瞬間もあった。だが、演出家の迷いや疑問を感じたことに対しては少しも悪い印象は抱かなかった。引っかかったのはあくまでも各シーンの質に差が生じていることだ。
テキストの言葉が難解だった。深いのか浅いのか分からなかった。きっと深いのだろう、と信じて見ていたものの、描かれる人間が浅いように感じて、やっぱり全体的に浅いのか? と混乱した。土地の雰囲気作り・世界観が戯曲・演出共によかった。田舎の閉塞感・謎の息苦しさが常にスペースを充満しており、不思議な哀愁・切なさが鑑賞中、心の中に漂っていた。ただ、キャラクター造形や会話の端々がリアルに感じられず、もどかしかった。 例えば、セックス依存症を手の平を返したように克服してしまうヒロイン。(戯曲を読む限りでは本当に克服したかは分からないが、上演を見る限りでは克服したような印象を受けた)終盤で駆け足に心の変化を見せ街を去る展開に彼女の人間味を感じなかった。突然、作者の都合でラスト動いてしまったように見えたのが残念だった。誰とでも寝てしまうこと・セックス、という事が記号的に使われていたような気がしたことも引っかかった理由の一つかもしれない。このテーマを使うのなら、もっと深くまで掘らないと客は納得しないのではないか、と感じた。とは言え、ワンダーウーマンの妙なリアルさには驚いた。彼女のどこにでもいる迷惑なおばさんという存在が、一気にこの作品を私の中で身近なものにした。リアルとアンリアルの差がもう少し縮まればいいと思ったが、非常に主観的な意見なので無視してもらって構わない。
舞台美術が初めて光に照らされたとき、心を掴まれた。暗闇の中では何か分からなかったものがようやく分かる高揚感が印象深かった。ただ、あの美術だと揺らすか、下がるか、上がるかの三種類しかないだろう、と予想ができてしまい、実際それを超える何かがなかった事が物足りなかった。やはり観客としては自分が想像できる範囲の一つ上を期待してしまう。糸を引く液体が遺跡・ラーメン・精液など様々なものに見えたのが面白かった。しかし、それらが作品の本質と繋がる適切な演出だったか、と聞かれると自信はない。あの演出と戯曲が上手く噛み合っていたとは何故だが思えなかった。細かい部分になるがワンダーウーマンが自撮り棒で撮影し、映像がカーテンに映し出されるとき、映像と動作がずれていて気になった。細部まで、何かが行き届いていないように感じた。私は演出をする人間ではないから分からないが、河井氏が本当にこの種の戯曲の演出に適していたのか、 懐疑的になった。とことん抽象・もしくは具象の戯曲の演出を見てみたいと思った。

[劇評]海津由布子 氏

「つまらないのは自分だって、ちゃんと分かったから。どこに行ったって。」
私たちはみんな、大した人間ではないのだ。くっきりはっきり、光を放てるわけじゃない。何かを変えられるわけでもない。だからせいぜい言うのだ。「他者を変えることはできない。けれども自分を変えることはできる。」聞こえのいい言葉で誤魔化しながら何か諦めながら、それでも精一杯私たちは生きている。
舞台は群馬県郊外、高速道路の中間に位置する町「朝日ヶ丘」。サービスエリア周辺の観光施設が主産業だ。その町から出て行きたい高校生、加絵と、町に戻ってきた青子。叔母と姪の関係の2人を中心に物語は回る。違和感や孤独を隠して塗り固めコーティングした彼らの生活。そうして形作られた町。その分厚い層にヒビを入れたのは、生活の根幹とも言える高速道路の陥没事故だった。現代社会は男女も老若も関係なく、全員に社会進出と能力の発揮を求める。自分らしさや個性の確立を求める。人は個を活かすために生きるようになった。一人でなんか生きていけないのに、一人で生きているような、生きていかなければならないような気のする世の中になってしまった。矛盾を前に閉塞感が立ち込めるのは自然だろう。あちこちに答えの無い綻びが見えるのに、自分の歩く道の先は霧に包まれて見えない。どこにも行けないもどかしさと焦燥感は、入り口でも出口でもない中途のこの町と似ている。劇中ずっと中心に据えられる道路の先に、観客は自分の住む町をつなぐ。物語で語られる朝日ヶ丘は、この世界と地続きの、どこかに在る町なのだ。
部分的・一方的に切り取るから偽物や本物、嘘や本当といった概念が生まれる。終わり無く続く現実の中では、そういった概念が流動的に逆に転じることはままある。その中で垣間見える「本当」や「本物」を、拾い集めて糧として、私たちは生きていると思うのだ。詐欺に身を落とした人物が、加絵に心を開いたように。そして加絵もまた彼女を信じたように。
この戯曲には主張がない。
只淡々と、京都の茹だる夏の夜のような、息苦しくまとわりつく絶望をありったけ描き出している。それは人の汚い部分であり、社会の至らない部分である。ニ千翔は彼らを救わない。距離を置き近づかない。物語に対する冷たい視線の中に、それとは反対の感情を感じた。彼は登場人物たちを、ひいてはこの世界を愛していると思った。
そうでなければ加絵は自分を騙した相手の元へは行かなかっただろう。その後、青子に対して手紙を書くことも。見つけた「本当」を信じて町を出た彼女は、まだ絶望に屈していない。同様に、道路の陥没事故後の全員の消息は語られない。起・承・転で物語は幕を閉じ、すべてを観客の想像に任せて彼らはその後を生きていく。現代社会と地続きの世界に彼らを置き去りにすることで、ニ千翔が描いたのは希望だ。正しい意図を汲めているかはわからない。しかし劇場に響いた泣き声は絶対に嘆きの声ではなかった。
右に左に揺れ躓きながら生きている私たち。そんな不完全な存在だからこそ、儚くて美しい世界を生み出せるのかもしれない。もし全員が平等に幸せな世界が在ったとしたら、人々は歌なんか歌わないし絵も描かないし、このような戯曲も無いのだろう。ならば足りないものだらけのこんな世界も悪くない。どうしようもない世界をどうしようもなく愛おしく思いながら、家路に着いた。今日くらいは、私も私を信じてみようか。

[劇評]永田悠 氏

舞台中央に浮かぶ抉られた道路の一部は、隔絶された世界を暗示している。入口も出口もない高速道路のパーキングエリア、街から離れられない閉塞感を男と寝ることで紛らわせる青山加絵、街の価値観を無意識の諦めとともに受け入れて生活するパーキングエリアの一画にある飲食店のチーフの大沼、従業員の水間。隔絶された世界から離れたはずなのに戻って来た加絵の叔母、青子。化石博物館は更新されない価値観を展示している。
道路があった部分に開いた穴に溜まる粘性の透明な液体。大沼と水間は、青子と照合するように液体の中から記憶を取り出してミニチュアの舞台に並べていく。記憶にまとわりつく液体を拭う動作は生々しさを感じるが、何かを思い出して言語化することを可視化するとこうなるのかもしれない。粘性な液体は、作中で様々な象徴になる。透明は何に照らされるかで色が変わる。
浮かぶ道路からは終始液体が垂れていて、「木々の深い緑で塗りつぶされた」と青子が呼び、「ぬめる緑」と加絵が呼んだような地方の連帯的空気感を示している。他の色を許さない雰囲気はどこにでもあるが、そこから離れてみなければ分からない。
緑を誤魔化すために出てくる色は白。白に照らされた粘性の液体は精液だ。集団での関係と対比された個人同士の触れ合いとしての白。これが成功しないことは青子も加絵も分かっている。白であろうと色付きの関係でしかない。しかし、最後に出てくる雪は意味合いが変わる。人によって付けられた赤や緑などたやすく覆ってしまう圧倒的な白。
赤は停滞と破壊と循環。渋滞した高速道路に並ぶテールランプの赤はガラス窓越しに見れば滲んでいるだろう。終盤の暴動のシーンで誘導灯に照らされた液体は、殴られた大沼が流した血にリアリティを付加する。ところで、登場人物の中で赤澤だけが街の外からやってきた人物である。赤の人。赤澤は偽物が気に入らず、街の博物館や舞台である飲食店のメニューを糾弾する人物として登場する。正義漢になりきれないのは、単なる不快を偽物と等価にして語るからである。SNSで拡散している描写もあるが、視聴者を含む赤澤の目線が外からの一般論にはならない。人は見たいものしか見えないからだ。特に自分と無関係の物事に対する場合には。こういった外からの視点が登場した後、物語は終盤を迎える。血は流れ続けるものであり、循環が生まれる。赤澤の名前が春子というのもこういった意味が含まれているのかもしれない。滞ったものは残れない。
名前の意味。加絵はキャンバスで、どんな色にも染まり得る。大沼の「沼」は水が滞っているイメージから過去に捉われていること、水間は水の間で流されるという他律的な価値観が見える。青子の青も水のイメージだが、作中の人物像からは、流れるという自律的なイメージが強い。斎藤には色のイメージはないが、 あり触れた苗字から、匿名的大多数を示している。登場シーンも、冒頭と、最後のわんわんという泣き方でこの人かなと想起させるくらいである。
匿名的で色が付いていない登場人物として重要なのは、迷惑メールの差出人だろう。櫻井翔となっているが、有名人であれば交換可能な記号である。加絵はキャンバスであることで櫻井翔と無色の交流ができた。星の砂という証拠により世界はここだけではないと認識し、従来の世界は崩壊していく。ここには冒頭に出てきた誘導灯、流されていれば成り立つ自己はない。街から離れた加絵は、最終的に粘性の液体と戯れている。育ってきた世界を自分の一部として肯定しているように。ここではない何処かに行けたからこそ、ここを認めることが可能になった。自由は選択肢が複数なければ成り立たない。
加絵の物語として見ると閉塞された世界からの解放となるが、青子の物語として見るとどうなるか。観劇し終わって感じたのが、青子は何故戻って来たのだろうだった。筆者が地方の閉塞感から離れてきた経験があり、青子に移入してしまったからだ。
「あっという間だよ。全部、なかったことになる。」「でも逃げてきて良かった、って思う。」「つまらないのは自分だって、ちゃんと分かったから。どこへ行ったって。」という台詞や、吸っているタバコの煙のたゆたうイメージからすると、 他の世界からまた逃避してきただけで、場所がたまたまこの街だったというだけ、という風にも見える。しかし、逃避ではないとしたら。あえて自分が逃げてきた過去と対峙するために選ぶ場所としては、選択肢はこの街しかありえないだろう。わざわざ煩わしいと思ってきたものを逃避先として選択する意味がないからだ。加絵と対比すると、内側に向き合うことを決めたことで青子は自由になりえた、というこ
とになる。
このように、加絵と青子を中心に、配色と世界の内側と外側の物語として観たが、視点をさらに拡げると、色も内側も外側もない世界で生活するしかない第三者の視座もある。赤澤がSNSで提供している動画を眺めている人々や、暴動をしたPAにごった返す大衆。数で言えば圧倒的多数者であるのに、名前はない。しかし、その人たちも当たり前に生きている。「色々、ねえ、遠くへ行けない人 間は(ここで)騙し騙し踏ん張んないと、ねえ、いけないんで。」「・・・もう、 勘弁してくださいよ。」という水間の台詞は、まさに第三者の視点を代表しているように聞こえる。
どんな人であれ過去があり生活している空間がある。飼い慣らすための方法論は人の数だけあるだろう。外に出てみることで俯瞰したり、自分の外の世界を下げることであったり、常に変化を求めたり。「ひたむきな星屑」が見せてくれるのは、人々がひたむきに生活する姿である。作中に出てくる「星の砂」は自分が生きている世界の外にもそういった生活が存在することの証拠である。そして、この物語の底に流れているものは、誰もが持っている「ここではない何処か」への憧憬ではないだろうか。

[劇評]番場寛 氏
『ひたむきな星屑』を観て(人間座スタジオにて)

劇が始まっておやっと思ったのは、登場人物が小説でいう「内的独白」を台詞として舞台上で発する瞬間である。しかもそれは一人ではなく複数の人物が、自分の心の中で思っていることだけでなく情景の描写までも自分で言葉として発するのだ。考えてみれば、自分で感じたり思ったことを同時に声に出して発することは、いかに不自然なことかは分る。文章だったら、日記やツイートに、あるいは小説のような文章として書くことはあるが、日常生活において、内的独白を声に出して発することはまずないばかりか、劇の中でもこれほど複数の人物によって発せられることはない。それはなぜか。
それは、劇では舞台上で発せられる役者の言葉を通じて、その人が演じている人物の心理や考えていることを探る瞬間に観客の緊張と好奇心が支えられており、それらを登場人物自身が言葉として発してしまったら観客は想像力を働かせる自由を奪われてしまうことになるからだ。だがこの作品の内的独白にも似たモノローグは、そうならないところに新しさがある。
多くの舞台で、二人の人物が会話を交わすのは、ある考えや思いを目の前の相手に伝え、それを受けた側がそれに対し、同調したり反発したりするためである。何か劇の中心となるような葛藤が生まれ、それがAかBかという対立を生み、弁証法的に、ダイナミックな論理の対立が劇の筋へと変化し、人物を動かすことに繋がっていく。この劇でもそうした会話の方が多くを占めている。
例えば数年ぶりに朝日ケ丘に戻ってきた青子と姪の加絵との会話は、多くの劇で使われる類の会話である。その閉塞的な街に耐えきれなくて出て行こうとする加絵の姿は数年前の青子の姿であるか、逆に青子が数年後の加絵の姿なのかもしれない。彼女らは誰の心にも普遍的に横たわっている故郷への憎しみと同時にそれと矛盾するような執着を二人の人物として体現しているのだろう。それは、現在加絵は「誰とでも寝る女」として知れ渡ってしまったが、青子もかつてそうした想いのない性行為をしたことがあったことが台詞で暗示される瞬間もあることで、オーソドックスな演劇的空間と時間を構築していた。

「ニセモノ」というキーワード

「ニセモノ」という言葉は随所で繰り返されこの劇を動かす。サービスエリアで出される実際はその土地とは縁もゆかりもない「湘南カレー」はホタテが入っているからと言い、言葉の雰囲気だけで命名されたのだし、化石博物館に展示されている恐竜の化石を初めとする多くの化石はよその土地から購入し取り寄せたものだとされる。私的な調査だと言っては店に侵入し、「ニセモノ」を告発する春子の発言はそうした「ニセモノ性」とでも呼べるものこそが、むしろこの街全体の本質を表していることを気づかせる。
だが「ニセモノ」とは何だろう。それはそれではない他のもの、ここではないどこかに「本物」がある筈だという確信に支えられている「幻想」かもしれない。「櫻井翔」という人物を名のる人からの迷惑メールも実在のタレントではないという点ではニセモノだろうが、発せられた言葉としては普通のツイートと等価であり誰かの本物の言葉なのだ。

吊り下げられた道路の一部とそこに空いた穴という舞台装置

今回の舞台で印象的かつ効果的だと思われたのは舞台中央に紐で吊り下げられた物体である明るくなるとそれはアスファルト道路の一部がはぎ取られたものであり、その真下には、それが取られた穴が空いており、登場人物はその穴から化石やら他のオブジェを出してはその面に並べていく。それだけではなく観客からは見えないが、その穴の底には水があるらしくそこでオブジェや手を洗う仕草が何度か反復される。水で手を洗うのは『マクベス』を初め演劇史のなかですでに何らかの意味を帯びた行為として定着しているのだろうか。加絵は靴を脱ぎ、その穴で足を洗うところで劇は終わっているが少し説明的過ぎる行為かもしれない。
その道路に空いた穴はこの劇の中で唯一起こる高速道路での陥没事故を連想させるが、その事故で起きた客同士のカタストロフを収集させようと駆けつけた大沼の台詞が明確である。混乱した客同士がもみ合ううちに、逃げる方と追う方が混ざり合い分らなくなると彼は言い、この街には出口しかないのだというようなことを言う(記憶が不確かだが)。ここにおいてもニセモノと本物、入り口と出口(戻ってきた者と出て行く者)という見せかけの二項対立を無化する視点が示されている。

新たなモノローグの可能性へ

どこかに本物がある筈だという希望を捨てきれないまま、ニセモノとしての生活を送るしかないと自覚して生きている人々の心理をこの劇は分りやすく表現している。だが私が今も考え続けているのは、複数の人物が他人を前にしているのに語る長い内的独白のようなモノローグについてである。
私は常に、演劇の中でも特に小劇場で演じられる劇には、前衛的なものを観たいという願望が強い。それで、そういう類の作品を求めて東京や横浜や静岡に行くこともあるが、昨年から今年にかけてそうした作品を集めたと思われる催しにシアターコモンズと、こまばアゴラ劇場で演じられた「これは演劇ではない」シリーズがある。参加グループでは重ならないのにある共通点が目立った。それはモノローグ作品が多いという点である。例えば村社祐太朗の「新聞家」では俳優が殆ど体を動かすことなく、朗読のように台詞を語る。脚本を目の前で朗読している俳優から脚本を取り上げたのと原理的には同じ筈なのに、観客に要求される集中力は朗読を聞いている時の比ではないのは、目の前の俳優が語る話を聞きながら観客は、自分の中でその語られる内容を場面として想像力で構築しなければならないからだ。
今回の『ひたむきな星屑』はどちらかというとオーソドックスな対話に支えられている部分が多いが、そこに挟み込まれる他人に向かって発せられるモノローグは、観客の想像力の自由を奪うどころか逆に極度にその集中を要求するような、そうした現代の新たな演劇の流れの一端を表していると言えるのではないだろうか。

追記
これは今回の作品の本質と関わりのないようなことだが、観客にとって重大なことと思われるので書いておきたい。これが一人でも多くの演劇人の目に触れることを願っている。
それは舞台上で俳優が実際に煙草を吸う場面についてである。今回の上演にあたっては煙が苦痛の人のためにマスクが配られるほど配慮されておりそれには不満がないし、青子が喫煙するのは談話するのに自然な休憩時間であることを示すためであり、それだけ意識された必要な演出だったのだろう。
ところで、静岡のSPACを初めとして特に外国から招いた劇団の俳優に舞台上で喫煙するシーンが目立つように思われる。問題は、 後で振り返ってもそれらの演出のメリットが分らないという点だ。確かに煙が上ることで空間が重層化されるし、視覚、聴覚以外に観客の嗅覚を刺激するという効果はあるが、それが演劇的リアリティにどの程度貢献しているかは疑わしい。それらの舞台では、ひょっとして単に俳優が喫煙中毒だからではないかと思わせる程、演出の効果は出ていなかった。その演出の狙いが、観客に明確に伝わる場合以外は喫煙シーンは入れて欲しくな
いと思う。

[劇評]藤城孝輔 氏
ねばつく街と、海の誘惑――『ひたむきな星屑』を観て

ひっかかりの残る作品である。わかる部分よりも、曖昧なまま残された部分のほうが圧倒的に多い。まるで本作は、観客が内容を理解したことにして足早に通り過ぎていくことを許さないかのようである。だから観終わってしばらく時間を置いた今も、芝居のシーンが白昼夢のようにおぼろげに頭にまとわりつく。見慣れているつもりで見過ごしていた夜の街並みが、違った表情で目の前に立ち上がってくる。私は「ひっかかり」という言葉を使ったが、本作の内容に合わせるならば「ねばつき」と言い表したほうがより適切かもしれない。舞台の中央に大きな穴が開いている。劇中で陥没事故を起こす高速道路を模したセットである。土の色をした穴の内側は透明な粘液で満たされ、化石、サーベルタイガーのおもちゃ、星砂の小瓶といった小道具が糸を垂らしながらそこから取り出される。この粘液の役割はさまざまだ。サービスエリアの従業員たちはまるでフードコートで出されるカレーの染みのようにエプロンを粘液で汚し、暴動の場面では粘液が血液に見立てられる。特に印象的なのは、二十年ぶりに朝日ヶ丘に戻ってきた主人公の青子に対して姪の加絵が現在の街の様子を説明するシーンである。舞台中央に宙づりにされたアスファルトの断片の上に並べられた粘液まみれの小道具を加絵が街の建物のミニチュアのように手に取りながら語る。その様子は、あたかも街全体がねばっとした粘液に包まれていることを示唆するかのようですらある。
高速道路を敷設したばかりの海のない街、朝日ヶ丘。と言っても、この街から高速道路に出入りできるわけではなく、朝日ヶ丘にはサービスエリアがあるのみだ。地元の人間に移動の契機をもたらすことのないこの高速道路は、ねばねばと糸を引く土地を急ごしらえの欠陥工事によって閉じ込めた単なるアスファルトである。腐敗を覆い隠すだけの開発を進めた朝日ヶ丘は逃げ場のない閉塞的な地方都市であり、一見都会化と社会的流動性を象徴し得るかに見える高速道路はホタテを入れただけの湘南カレーや海外の化石ばかりを陳列した化石博物館と同様、陳腐で表層的な虚飾に他ならない。舞台上の柱を蔦のように絞めつける赤い電飾で表現された渋滞中の自動車のランプや、青子の吸う煙草の煙が舞台上に厚く垂れ込めるさまは街の閉塞感や息苦しさを強調している。
かつてこの街から逃げ出した青子にとって、現在の朝日ヶ丘は見知らぬ土地に変貌している。劇の冒頭、木々の影が背景に映し出され、虫のすだきが聞こえる夜のシーンで、青子を演じる渡辺綾子は自分の足もとを探るように登場し、一つ一つの言葉の感触を確かめるようにセリフを発する。後の場面においても、彼女はカフェに入ってきた加絵が自分の姪だと認識できず、かつての同級生でサービスエリアの主任である大沼が過剰な親しさで接してきたときには困惑の表情で応じる。久しぶりの故郷に対する懐かしさを彼女が見せることはない。それはサービスエリアを中心とする街の一帯が、マルク・オジェが「非-場所」という造語で言い表した、どこにでもあるどこでもない場所であることを意味する。共同体の営みがもたらす連帯感や場所への愛着はそこには存在せず、帰郷者の青子に限らず街の人々は皆、孤独と疎外感の中で生きている。
以上のような街の息苦しさからの脱出を切望する加絵の思いは、海への憧憬という形をとって現れる。劇中のセリフで「群馬県」と直接言及されることはないものの、内陸に位置する朝日ヶ丘において海は、ここではないどこかの理想的な象徴となり得る。映画館のシーンで目まぐるしく切り替わる投影映像に映し出される波打ち際のショット、ロッド・スチュワートが帰郷の船路を自由の追求として歌い上げる挿入歌「Sailing」(1975年)など、海のモティーフは自由や開放感などを含意しながら繰り返し登場する。加絵や青子の携帯電話にたびたび届く「櫻井翔」を名乗る迷惑メールもまた、街の外からの誘惑を表すものであろう。その中の一通で、櫻井翔はロケで訪れた沖縄の海の美しさについて語り、星砂をプレゼントとして贈りたいと伝える。本作の櫻井翔は、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』(1949年)に登場する冒険家の兄の幻影のように、夢の実現を約束する幻だと言える。もちろん音声や舞台に投影されるテクストといった、実体のない曖昧な姿でしか登場しない櫻井翔が信用できる存在であるという保証はどこにもない。
主人公たちを外の世界へと誘う謎めいたメールに対する青子と加絵の反応は対照的である。青子は一通目が届いた時点で即座に「迷惑メール」と断定するが、加絵はずっと櫻井翔と連絡を取り合っていたことが終盤で示される。メールの送り主は加絵にとって「会いたい人」となり、彼女が街を出るきっかけとなる。外の世界を知っている青子は「つまらないのは自分だって、ちゃんと分かったから。どこに行ったって」という諦めにも似た自己認識を既に得ているのに対し、加絵はまだ街の中しか知らず、外に希望があると信じているように思える。朝日ヶ丘からの加絵の逃走を判断力に欠ける若者の不毛な旅立ちと見るか、自分自身を理解するために不可欠な通過儀礼ととらえるかは観客しだいであろう。
東京やメキシコから加絵は朝日ヶ丘に残った青子に手紙を書き送るが、注目すべきは手紙の内容が語られるシーンで加絵を演じる土肥希理子が舞台中央の穴に入り、両脚を粘液まみれにしながら言葉を発する点である。結婚して子どもができた一見幸福そうな家庭生活を淀みなく報告するセリフとは裏腹に、彼女の脚をとらえた粘液は自由を奪い、彼女を絡め取ろうとしているかのようにすら見える。旅の終着地で彼女を待ち受けていたのが朝日ヶ丘と同様のねばつく街でしかなかったと解釈することも不可能ではない。
ここで演出の河井朗が柳生二千翔の戯曲の結末に対して異なる解釈を提示しようとしているのか、それとも柳生の戯曲にもともと込められていた両義性を強調しているのかは、にわかには判断しがたい。ただ確かなのは、この曖昧な結末は観客みずから答えを見つけることを要求しているということだ。雪の朝にもかかわらず一心に街の外を目指す加絵が旅立ちぎわに口にする「トラスト・ミー」という一言を信じて彼女の未来に希望を見出すか。あるいは、加絵もいつか青子と同じように、どこに行っても同じだと悟る日が来るのか。それとも――
本作は決してわかりやすい正解を提示しない。ステージ上にぽっかりと開いた穴と同様、解釈と想像の場は常に観客に向けて開かれている。