第3回 田畑 実 戯曲賞

選考結果

受賞作
『まるだし純情フォークロア』
西マサト 作

佳作
『その十字路の先を右に曲がった。』
北島 淳 作

ご応募下さいました皆様、ありがとうございました。

今年は、私の方のスタジオに問題が生じまして、「戯曲賞」の取り組みが不充分になり、応募作品も30作品に止まりました。
しかしながら、その内容は例年にも増して強かで、自信に溢れた力作揃いで、その中の半数近くの作品が、第一次選考に残るというものでした。
そして究極の 1 本に絞り込むにはどれも捨て難く、残念な思いは拭えなかったのですが、最後は、次の 2 本を今回の受賞作とさせて頂くことになりました。
尚、昨年も試みていますが、応募作品は全て、今後の私共の上演候補作品として保存させて頂き、1 本でも多くの作品を上演して、多くの人達にご紹介して行く方針は変わりませんので、その折にはよろしくお願い致します。

さて、世の中はコロナウイルスの状況で、演劇界も大変厳しくなって行くようですが、逆境をバネにして益々のご活躍を期待しております。
微力ではございますが、これからも皆様のご支援をさせて頂くために、「戯曲賞」の作品募集を行いますが、奮ってご応募を下さい。お待ちしております。

2020年5月30日
人間座  菱井喜美子

選考委員
山口浩章氏(このしたやみ)
田辺 剛氏(下鴨車窓)

(受賞作は2021年5月に上演予定でしたが、人間座スタジオの問題が解決するまで、延期させて頂きます。また、今回の副賞は、各10万円ずつになります)

選考経過と選評

〈選考経過〉田辺剛(劇作家)

第3回田畑実戯曲賞の最終選考会は2020年5月27日に人間座スタジオで行われた。審査は昨年と同様に人間座の菱井喜美子、劇作家の田辺剛、演出家の山口浩章によって行われた。今回の応募は30作品と昨年より少なくなった。
まず、全作品を読んだなかから受賞に推す作品、あるいは議論の俎上に載せるべき作品を三人それぞれが挙げるところから始まった。一人でも挙げる作品があればそれについて議論をすることとして21作品が議論の対象となり、それら一作品ずつ話し合いを重ねて下記の14作品を一次選考通過作品、そのなかの7作品を二次選考通過、さらに3作品を最終候補作品として絞り込んだ。

[各次選考通過作品]
以下全作品が一次選考通過、〇は二次選考通過、●(太字)は最終選考作品/作家の五十音順

・太田伸甫『ままごと』
〇大原涉平『おろしたての魚群』
・川辺恵『御覧極楽夢現』
●北島淳『その十字路の先を右に曲がった。』
・穐山奈未『氷の中のミント』
・高間響『そこまで言わんでモリエール』
●西マサト『まるだし純情フォークロア』
・広島友好『千石がゆく』
〇ピンク地底人 5 号『夜明け前にコーヒーを飲むな、』
〇福地海斗『カイコ』
・三野新『人間と魚が浜』
●むつみあき『煩悶耽溺無色の青年が積み上げる模範と成功、とそれに喰らわす一撃』
〇山野博生『灰野澤、虹の袂』
・和田見慎太郎『まつげにかかる灰』

各選考委員とも今回は強く推す作品はないものの受賞作は出すということで合意した。選考通過が叶わなかった作品のなかで、菱井は『そこまで言わんでモリエール』と『夜明け前にコーヒーを飲むな、』を技術的にも達者で成熟した作品と高く評価。山口は『おろしたての魚群』を物語の焦点が曖昧になっていくことが面白いなどと魅力を語った。また田辺は『灰野澤、虹の袂』を閉塞しているが密度の高い劇世界が独特と指摘した。
最終候補に選ばれた三作品で投票したところ『その十字路の先を右に曲がった。』には山口、『煩悶耽溺無色の青年が積み上げる模範と成功、とそれに喰らわす一撃』には菱井、そして『まるだし純情フォークロア』には菱井と田辺がそれぞれ票を投じた。『煩悶耽溺無色の青年が積み上げる模範と成功、とそれに喰らわす一撃』については、淡々とした会話のなかに高校生らのリアリティが強く感じられることや、高校生活とは一見無関係な社会の状況が劇の終盤に深く影響するという両者の距離の描き方に注目するといった評価の一方で、高校生らの素朴な群像劇に収斂していることに物足りなさを感じる指摘もあった。『その十字路の先を右に曲がった。』については、山口が今回の応募作のなかで最も高い評価をした作品だと述べた。人物や状況の謎と舞台である丘の上の邸宅が独自の価値観で動いているのが魅力的で、作家自身の世界観に閉じている作品が今回の応募に多いなかでこの作品は注目に値すると評価した。一方で独特な雰囲気は醸成されているが物語のなかの謎の曖昧さがかえって中途半端な印象を与えるという指摘もあった。『まるだし純情フォークロア』については、青年が故郷の町を彷徨いながら不可解な場所や人物などに出会うがそのことによって作られる妄想のような旅路が興味深いという評価がある一方で、作品全体が主人公の語りによっているという作劇の方法を疑問視する指摘もあった。
受賞についての議論は『その十字路の先を右に曲がった。』と『まるだし純情フォークロア』の二者択一になりつつあったが、どちらの作品にも一長一短があり決定打となる一言を得られない状況だった。そこで菱井は二作品の同時受賞を提案し最終的に他の二人も同意した。審査会では応募された戯曲について、ト書きを適切に書けばもっと読みやすくなるだろう作品が少なくなかったこと、また誤字脱字が目立つものもあったことが指摘された。舞台の創作現場に持ち込まれる「上演台本」ならば口頭で補足説明もできるが、読み物としての「戯曲」としては加筆修正が必要なこともあるので応募者には留意されたい。

〈選評〉⽥辺剛(劇作家)

西マサトさんの『まるだし純情フォークロア』を推した。この作品は36歳と設定されたエロ漫画家の男によるほとんど独白劇だがそれは曖昧な、あるいは忘れ去られた記憶を取り戻す旅路であり、自身の孤独を掘り下げそれを否定したり乗り越えるのではなく共存するために再発見する思考の軌跡だ。旅の始まりは両親を驚かせようと実家に帰るも当の家がなくなっていて途方に暮れるところからだが、故郷なのに家族とのつながりから切り離される設えは彼の孤独で不条理な旅を象徴する。果たしてさまざまな人物や都市伝説(フォークロア)との出会いがその後に待っているが、故郷の町を彷徨うさまはカフカの『城』を読むときのよ
うな悪夢の世界の手触りで引き込まれた。不思議な体験の種明かしがあるもののそこで終わることなく男の旅はもう一歩二歩と核心へ進む。そして幕切れのところ。深夜の山中で幼い頃の男の首を絞めた女教師はその直後に自殺したが、時が経ち男がその女教師と同じ年齢になったとき、もはや追憶のなかにしかいない女教師に男は好きだと告白する。あの時ではない、いまあなたのことが好きなのだと。なぜ自殺したのかは誰にも分からないが、男自身のいまの孤独と当時の女教師の記憶、そして彼女への想像が共振する瞬間を「好きだ」という告白で描写する。いまの自分がいまいる人に目がけるのではなく、いまの自分が過去にいた(いまはこの世にいない)人に目がけるのだ。ここに過去から現在へ直線のように続く時間はもはやなく、記憶や妄想と肌身で感じ目の当たりにする現実との境界線は消失している。その行き来は複雑で豊かだ。秀逸だ。もちろん全体として粗がないわけではない。語りに寄りすぎた作品の構成や、それゆえにさまざまな人物やことがらが点在したままになっていることは確かにそうなのだけれど、それらを差し引いても今回の応募作のなかでこの作品は異彩を放っていた。
北島淳さんの『その十字路の先を右に曲がった。』も作家独自の匂いが漂う劇世界が構築されていた。しかし謎といえばいいか不明瞭な要素は物語の不条理さを強くするよりも読者の想像を振り回すことになってしまっているように思われたし、いくつかの単語には必要以上に物語世界から連れ戻され、他の俳優が盗むという指定の台詞は本当に必要だったのかなど、受賞作としては反対しなかったが疑問がいくつかあった。その他に、山野博生さんの『灰野澤、虹の袂』では劇世界の密度の高さに興味をひかれ、太田伸甫さんの『ままごと』や川辺恵さんの『御覧極楽夢現』では突っ走っていく戯曲のエネルギーに感嘆した。

〈選評〉⼭⼝浩章(演出家)

田畑実戯曲賞も今年で 3 回目となります。これは演劇に携わる人たちの励みになればとこの賞を設立された人間座の菱井さんの熱意と、応募してくださる劇作家の皆さんのおかげであり、この場を借りて御礼申し上げます。
選考の過程は同じく選考委員を務めた田辺さんの「選考経過と選評」を読んでいただくとして、ここでは受賞作や、受賞には至らなかったものの、私が気になった作品のことなどを書こうと思います。
今回、30作品の応募があり、最終的には北島淳さんの『その十字路の先を右に曲がった。』と西マサトさんの『まるだし純情フォークロア』の2作品が受賞作として』選ばれました。
北島さんの『その十字路の先を右に曲がった。』は、ある農場を舞台とする作品で、独特の雰囲気を持つ。何が盗まれたのか分からない盗難事件や、主人の不在、少年の秘密など、舞台上では明かされない農場の秘密が、農協から調査に来たスズキに代表される現実世界との距離を保つのが魅力の作品。原作にチェーザレ・パヴェーゼの『月とかがり火』とあるが、個人的にはパヴェーゼの『祭りの夜』に近いように思いました。
西さんの『まるだし純情フォークロア』は〝語り〟のスタイルで、自分の故郷での記憶を探る作品。町の記憶と自分の記憶が重なっていく。舞台で表現するからには実際に町で何かに出会っているのか、脳内での出来事なのかの境界線は曖昧にならざるをえないが、経済活動と割り切っている宗教指導者や、廃遊園地など町の景色の移り変わりを言葉だけで想像させる力がある作品でした。
また、上記 2 作品のほかにも、魅力的な作品がありましたので、触れておきたいと思います。
まず、最終候補まで残った、むつみあきさんの『煩悶耽溺無色の青年が積み上げる模範と成功、とそれに喰らわす一撃』は高校生の 1 年間(2006 年)を月ごとに描くというもので、各幕間に示される、その月に実際起こった社会での出来事が記されていて、高校という閉じられた世界と、社会との距離が表現される構造になっている。終盤、社会問題が直接彼らの人生に影響を及ぼす瞬間や、どこにも行きつかない、何も成し遂げられない彼らのリアルな描写が魅力の作品でした。
広島友好さんの『千石がゆく』は複数で演じる落語のように構成や言葉遣いが巧みで、深刻な状況をほのぼのとした空気で描く良作。大原渉平さんの『おろしたての魚群』は小学校のクラス劇の配役をめぐる保護者からのクレームという問題から始まり、先生方と保護者との話し合いの中で問題がどんどん本題から外れていくのが楽しい感覚を生み出している作品。三野新さんの『人間と魚が浜』は人物像ではなく、社会構造そのものを表現するため、動作や位置、発話のタイミングなどが細かく指定された、設計図のような戯曲で、戯曲とは本来「指示書」なのだというような感覚を呼び起こされました。三野さんの作品には衣装や会場の図案や写真も添えられていて、自分の創作するものを伝えようという意志の強さも感じられました。
最後に少しだけ、気になったことというか、田辺さんも「選考経過と選評」で書いてくださっているのですが、『戯曲』というのは本来『上演作品』を生み出すための一つの要素であり、上演に向けた過程で演出なり参加者との話し合いで決まることもあると思いますし、空間の構造や、人物の配置などは実際に会場に行けば一目瞭然ということもあります。もちろん、意識的に何かを決めないままにして置いたり、情報を明かさないようにしたりはあると思いますが、そうでない場合はト書きなどに書き込んでもらう方が、その戯曲の魅力がより伝わるだろうにということが多かったので、上演に向けて稽古場で俳優やスタッフに配る物と、戯曲賞に出すものを分けて考えていただいても良いかもしれません。
なにはともあれ、応募してくださった皆様の健康と、今後の表現活動が実り豊かなものになりますよう、願っております。