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第4回 人間座「田畑実戯曲賞」 選考コメント

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第4回田畑実戯曲賞 選考経過と選評

〈選考経過〉田辺剛(劇作家)

第4回田畑実戯曲賞の選考会は2021年6月29日に人間座スタジオで行われた。審査は昨年と同様に人間座の菱井喜美子、劇作家の田辺剛、演出家の山口浩章によって行われた。今回の応募は41作品と前回より多くなった。

まず、全作品を読んだなかから受賞に推す作品、あるいは議論の俎上に載せるべき作品を三人それぞれが挙げるところから始まった。一人でも挙げる作品があればそれについて議論をすることとして21作品が議論の対象となり、それら一作品ずつ話し合いを重ねて下記の15作品を一次選考通過作品、そのなかの6作品を二次選考通過、さらに4作品を最終候補作品として絞り込んだ。

[各次選考通過作品]

以下全作品が一次選考通過、〇は二次選考通過、●(太字)は最終選考作品/順不同

・川辺恵『太陽の国』

・中村ケンシ『ムスウノヒモ』

●武士岡大吉『路線図』

・伊豆野眸『サフランの子どもたち』

・西村たかはる『床板と泡立ちに泣け』

・胡桃澤伸『蝉丸と逆髪』

・坂口弘樹『たのしそうなお池』

・三橋亮太『郷愁という惑星?』

●ピンク地底人5号『ミヤコから遠く離れて、みる』

・武田暢輝、川島愛音『ふくませもの』

・神田真直『プライベート・ルーム』

〇合田団地『フォーエバーヤング』

●七坂稲『蒸気』

●水野はつね『骨を捨てる』

〇森田諒一『ぼんやりたち』

選考通過が叶わなかった作品のなかで、『ぼんやりたち』について田辺は犬の死骸などにコンセントを差すとテレビがつくといった不条理な設定の魅力を、また山口は人物がアルファベットで表記されることに現代ならではの意義があると指摘した。『フォーエバーヤング』について田辺は他の作品にはない独特な劇世界の構築に成功していると指摘した。

最終候補になった作品から受賞作について、山口は『蒸気』、田辺は『路線図』、そして菱井は『骨を捨てる』を挙げた。次点として山口と田辺が『骨を捨てる』、菱井は『路線図』と『ミヤコから遠く離れて、みる』を挙げた。

『蒸気』について、山口はSFの設定による終末の世界が巧みに描かれており、それは説明過多にならず必ずしも分かりやすくはないがそのことがかえって作品の成功につながっていると高く評価した。独特な劇世界であり今回の応募作のなかでずば抜けていたと強いこだわりをみせた。しかし、菱井や田辺には山口の解釈や作品の魅力がなかなか理解されず、そもそも菱井も田辺も一次選考の時点で対象から外されてよいという立場だった。山口は熱く語るも、例えば田辺はSFの設定に瑕疵があって劇世界に入り込めないなどと、ついに作品の魅力を共有することはできなかった。

『路線図』について、構成の荒さやほころびはあるものの自由奔放な筆致に書き手のエネルギーが感じられるという評価があった。劇中の『銀河鉄道の夜』の引用や詩的な台詞の巧さも話題になった。一方で問題や悩みをかかえる人物らの描写が紋切り型ではないかという指摘もあった。田辺がこの作品を受賞作にふさわしいと推し、菱井も次点ながら受賞作になることに賛成した。山口は議論のなかで一定の理解は示しつつも受賞には消極的だった。

『骨を捨てる』について、母を亡くして家族が二人だけになった姉妹がふさぎこむことなく、その骨を捨てようと旅に出かけるところには姉妹二人の前向きな姿勢が見えるという評価があった。物語を進める会話のリズムも良いのだが、一方でたびたび入る回想や映像的な構成が難点だとする指摘もあった。

『ミヤコから遠く離れて、みる』について、菱井は修学旅行をしている高校生たちのそれほどのことでもない場面が重ね合わせられるところに彼らの青春時代が見えてくる、その淡々とした筆致が独特な劇世界をつくっていると前回の応募作と同様に評価をした。一方で作者の動機がつかみづらいという指摘もあった。

受賞作については三人の審査員がそれぞれ別の作品を推していた。そのなかでも田辺が推す『路線図』は菱井も受賞に賛成し山口も強く反対はしないところだったが、菱井が『骨を捨てる』も加えた二作受賞を主張して議論が続くことになった。『骨を捨てる』について、田辺と山口は確かに前回の応募作に比べても読み応えのある作品になっていると好意的な評価ではあったが、受賞作にふさわしいかは疑問である旨を述べた。田辺は佳作が設けられるならそれでどうかと提案したが菱井は二作受賞にこだわりを見せた。その後『骨を捨てる』の単独受賞や受賞作なしで佳作二本という案も出たが、それぞれに異論が出た。最終的には菱井の説得に田辺と山口が同意して二作の受賞となった。

〈選評〉田辺剛(劇作家)

 川辺恵さんの『太陽の国』の台詞が印象深い。審査会からずいぶん時間が経ったのにまだ記憶の片隅に引っかかっている。消えない。追い詰められた若い人らのやり取りは荒削りで説明くさかったりもする、字面だけ見るとたいした特徴もない台詞なのだけど、それが重ねられて一つの場になるときに困難な状況でもがき苦しむ人らの切実さがそこに満ちていることに気づく。一つの台詞に思いを詰め込もうとしたり、ことばを情報伝達のツールのように扱う劇作家はいくらでもいるが、そうした者らとは一線を画す作家さんなのだろうと思う。書き手の頭だけで考えられたのではなく、登場人物の身体が震える反響をすくい取るようにして記されたことば(台詞)だ。あとはそうしたことばが積み重ねられる場所を丁寧にこしらえてあげるか、つまり物語の構成やプロットなどはじめの一歩を丁寧に踏むか、逆にそうしたものに構わずに突っ走っていくかではないかと思う。川辺さんの作品にまた出会いたい。

 突っ走ってみせたのは武士岡大吉さんの『路線図』だった。駅のホームにはあちこちから列車が到着しまた出発する。あるときはそこからシベリアにまで読者は連れて行かれる。

「ええかおいちゃん、あたしらは、いまから、おいちゃんの目の中に入る。シベリアの大地とわたしらはおいちゃんの目の中にたっているんや」

「今から10数えるで、ほしたらおいちゃんの目とこの世界がいれかわるんや」

 こうしたことばを紡ぎながらこの駅や駅のホームにはさまざまな人らの世界が重ね合わせられる。たしかに審査会でも指摘があったように、物語の粗い構成や紋切り型な人物設定など問題点もあるだろう、けれども縦横無尽に突っ走るこの作家の筆致は信頼できる。そしてこの作品を「路線図」と名付けたこと。一般に路線図には人物は描き込まれないが、人物の姿が見えないほどの場所からこの劇世界を俯瞰している作家の視線がこの作品名に示されている。戯曲には例外なく作家の世界や社会の見立てが現れるが、この作品では世界を路線図に見立てている。好き放題に書かれているように見えてその俯瞰の感覚を失わないでいることがこの作品の核心を支えている。この名付けがなければわたしはこの作品を推さなかった。

 また出会いたいという思いが叶ったのが、水野はつねさんの『骨を捨てる』だった。前回の応募作がとても印象に残っていてしばらくぶりだったが嬉しかった。読み応えのある作品で審査員の三人ともが一定の評価をしたのは今回の応募作のなかでも数えるほどしかない。母の骨を捨てるために姉妹が旅にでかけるという設定は、寂しげになりそうだが決してそうはならず、二人のこれからのために必要なことだったことが分かる。会話のリズムの良さが効果を発揮した。ただわたしが読みながらイメージしたのは映像作品であり、舞台として演劇としてこの作品がどう活きるのだろうという疑問があった。それゆえ受賞作とするにはためらいがあったが、今回の受賞を機会にさらに励んでいただければと思う。

第4回田畑実戯曲賞 講評

山口浩章(演出家)

田畑実戯曲賞は今年で4回目を迎えます。歴史の浅い、小さな賞ではありますが、4年間続いているのは、人間座の菱井さんと、応募してくださる皆様のおかげと、感謝するとともに、自分もこの賞に係わらせてもらう身として、「演劇」に貢献できるよう微力を尽くそうと思います。

この4年間、菱井さんと下鴨車窓の田辺さんと私で審査させていただいておりますが、当然のことだとは思いますが、毎回それぞれが推す作品が違って審査会は白熱します。

今回受賞されたのは武士岡大吉さんの「路線図」と水野はつねさんの「骨を捨てる」でした。「路線図」は荒削りなところはありますが、舞台は地方の駅からほとんど移動しないのですが、その線路の先がシベリアの大地にまでつながっているという感覚が面白い作品です。一方「骨を捨てる」は母親の遺骨を散骨するために旅をする話で、状況とテンポの良い会話のギャップが心地よい作品です。

審査の過程や受賞作への詳しいコメントは田辺さんの文章を読んでいただくとして、ここでは、なんとなく私が感じたことや、受賞には至らなかったが、特に気になった作品について書きたいと思います。

今回40数作品読ませていただいて、特に若い作家の方たちに「個」の境界線が曖昧になっていく、または「個」の境界線を越え、混ざり合っていく感覚があるのではないかと感じました。「個」の集合としての「集団」ではなく、境界線の曖昧になった「個」が混ざり合ったような「私たち」とそれをとりまく世界を書くという傾向があるのではないかと思いました。

岡田利規の「NŌ THEATER」よろしく、現代能と題された三橋亮太さんの「郷愁という惑星?」は一人の俳優が一つの役を演じるのではなく、場合によっては役を演じるのは俳優でさえなく、鏡などの「物」という作品です。確かに能では、例えば「葵上」では病床の葵の上は舞台上に小袖を置くだけで表現されますし、シテの心情をシテ方ではなく地謡が表現することも少なくありません。「郷愁という惑星?」は三つの駅という場所の記憶をたどりながら「私たち」という集合体を描く話のように感じました。演者は時には誰かの仮面を借りてその場に立ちますが、それは「キャラクター」ではなく、「集合体」の一部という感覚です。

また、森田諒一さんの「ぼんやりたち」もA、B、C、Dという4人の俳優によって演じられますが、A、B、C、Dそれぞれの関係性はあっても「個」という存在ではなく、性別さえその時々で変化する印象を受けます。ただ、世代の違うものを「他者」というか「私たちでないもの」として明確に分ける感覚も強く感じます。

上記2作品はとくに顕著な例でしたが、他にも多くの作品にそのような現在の流れを感じました。

伊豆野眸さんの「サフランの子供たち」はギリシャ喜劇を大胆に引用した作品で、くるみざわしんさんの「蝉丸と逆髪」は能の「蝉丸」を素に現在の皇室問題やマクベスの要素を盛り込んでおり、ともに面白く読ませていただきました。

最終選考まで残ったピンク地底人5号さんの「ミヤコから遠く離れて、みる」は高校生の修学旅行の話で、男女が同部屋にされるという状況設定にだいぶ無理があるものの、思っていたよりも同級生が大人だったことを知ってしまった、なんともいえない大人と子供の間にある切なさが描かれた作品でした。

もう一本最終選考に残ったのは七坂稲さんの「蒸気」です。遠い未来、おそらく核戦争で地球全体が凍える寒さになってしまった後の世界ですが、一般的には火山の爆発でそうなったとされており、「戦争原因説」はトンデモ論のように扱われています。駅とミートパイ工場の間で行き来する人を数える主人公たち。直接的には語られないが、ミートパイ工場に行って戻った者がいないことや、駅に着く電車が全て超豪華列車であること、食糧難の世界で、ミートパイ工場は世界が戦争をしないために作られたことなどから、ミートパイ工場に言った人間は工場で働くのではなく、ミートパイになっているのは明らかで、しかもミートパイ工場に行く人々は、そのことを誇りに思っているというディストピアもののような世界です。こうした話はネタが割れると急速にしぼんでしまいがちなのですが、最後まで飽きさせず読ませる力もあり、私は終始この作品を推したのですが、受賞には至りませんでした。

他にも西村貴治さんの「床板と泡立ちに泣け」や坂口弘樹さんの「たのしそうなお池」なども興味深く、今回受賞に至らなかったのは残念ですが応募者の皆さんの次回作を楽しみにしております。